
菅原家は、
また、道真公の祖父、
- ※天穂日命…天照大御神より生まれた神様で、「農業・産業の神様」として信仰されている。
類まれなる才能の持ち主であり、人々から厚い信頼を得ていた菅原道真公。
そのご生涯は、政略による左遷など波乱万丈のものでした。
神童と称された幼少期
道真公は、幼少の頃より学問の才能を発揮され、わずか5歳で和歌を詠まれるなど、神童と称されました。


- 【幼少期につくったとされる漢詩】
-
月の輝きは晴れたる雪の如し
梅花は照れる星に似たり
憐れむべし 金鏡転じ
庭上に玉房の馨れることを今夜の月の光は、雪にお日さまがあたった時のように明るく、その中で梅の花は、きらきらと輝く星のようだ。
なんて素晴らしいのだろう。
空には月が輝き、この庭では梅の花のよい香りが満ちているのは。
文武で名を馳せた青年期

道真公は、さらに勉学に励み、学者としての最高位であった
学問だけでなく、弓にて百発百中の腕前を披露されるなど、文武両面に傑出した人物として、その名を馳せていました。
出世から左遷へ 壮年期



京都から讃岐国の長官として赴任された際、疲弊していた国を建てなおすなど善政を行い、住民に大変慕われました。
その実績が宇多天皇に認められ京都に戻り、厚い信任を受け、ますます政治の中心でご活躍されました。
寛平6年(894)、唐の国情不安と衰退を理由に遣唐使停止を建議され、後の国風文化の開花に大きな影響を与えました。
その後、右大臣に任じられ、国家の発展に尽くされていましたが、左大臣 藤原時平の政略により、身に覚えのない罪によって大宰府に突如左遷されることとなりました。
失意の中でも誠を尽くされた晩年期


ご家族とも十分な別れも許されないまま京都を離れる際、ご自宅の梅の木に別れの歌を詠まれました。
- 【京都を離れる際に詠まれた和歌】
- 春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。
主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
大宰府では、衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも、皇室のご安泰と国家の平安、またご自身の潔白をひたすら天にお祈りされ、誠を尽くされました。
延喜3年(903)2月25日、道真公はその清らかなご生涯を閉じられました。




その後、朝廷でも無実が証明され、人から神様の御位に昇られた道真公は、太宰府天満宮に永遠に鎮まり、「学問の神様」・「至誠の神様」として現代に至るまで永く人々の信仰を集めています。
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