「25」は太宰府天満宮にとって意味深い数字です。それは菅公さまに縁ある数字で、誕生された日・左遷された日・お亡くなりになった日が、すべて25日であったからです。太宰府天満宮では、毎月25日にお祭りを行います。また、25年ごとに大祭を行います。



道真公はたいへん「ハイカラ」な方でした。当時の先進文化である中国文化に造詣が深く、たとえば、当時日本の貴族の夏の衣装は快適さを優先して、麻の布地を用いるのが一般的でしたが、道真公は唐風に絹の布地にこだわって着用されていらっしゃいました。
また、当時日本で花といえば桜でしたが、道真公は中国の国花である「梅」をより愛されていました。



 

天満宮の宝物殿のそばに、中国の伝説上の動物、麒麟(きりん)の像があります。この麒麟にはおもしろいエピソードがあります。長崎のグラバー邸で有名なグラバー氏がこの麒麟像をこよなく愛され、数回に渡って太宰府天満宮を訪れては麒麟の像を鑑賞していたそうです。グラバー氏は、友人が設立したビール会社を引き受けましたが、その時名前を「キリンビール」に変えたそうです。それが今のキリンビールになったとのことです。

麒麟像


現在の宮司:西高辻(にしたかつじ)さんは道真公の子孫でいらっしゃいます。どうして道真公の名字である「菅原」姓ではないのでしょう?
それは平安の都には、「菅原さん」がたくさんいて、それぞれ呼び分けするために住居の地名を、もうひとつの名字として名乗っていたのです。
菅原家は本家の邸宅が「高辻」という場所にあったことでこの名が生まれ、さらにその菅原家が「西」に移ったので、そのもうひとつの名字が「西高辻」になったのです。また鎌倉時代になると、西高辻さんのお兄さんと弟さんはそれぞれ別に家を構えます。お兄さんは大きな鳥居の側に、弟さんは小さな鳥居の側にお宅を構えました。ですので、当時の高辻さんは「大鳥居」さんと呼ばれました。 ですから、「菅原」「西高辻」、そしてもう一つ「大鳥居」という三つの姓を歴史的にはもっています。





おみやげの語源は「お宮下」です。これは、もともとお米をお宮に献上したものを、神社や寺院では参道の茶店などに払い下げ、たとえば餅などに加工して参拝者の帰路の食料にしていたことから来ています。現在においても「米」などを原料にした食品が、おみやげとしての商品に多いのはそのためのようです。




江戸時代の社務日誌コーヒーがわが国で普及しはじめたのは明治時代も中期の21年、上野の『可否茶館』からといわれていますが、それ以前、江戸時代、それも寛政9年(1797)当宮にコーヒーが白砂糖と共に献上されていたことが、江戸時代の当宮の社務日誌『延寿王院鑑寮(えんじゅおういんかんりょう)』に記録されています。
鎖国下の当時、外国人が往来していた長崎・出島では飲用されていたものの、出島を除いた国内のコーヒーの記録では最古のものと推察されています。




御本殿の欄間中国に黄河という大河があり、その河を鯉が上流に向かって登ります。龍門という伝説上の地に泳ぎ着いた時、高く険しい瀧、あるいは厳しい早瀬があり、そこを飛越えた鯉は龍になるというのが『登龍門の伝説』です。
中国では、龍は王道を歩む王者の象徴で、人徳共に兼備した人のことを指しています。
当宮の御本殿は、きわめて雄大な桃山時代の建造物で、欄間には緋鯉に乗る文人の彫り物がなされていますが、菅公薨後ついに身の栄達を極め正一位太政大臣に登られたことを称え、このような彫刻がなされたのでしょう。




食事の時、「戴きます」「御馳走さま」と言いますがその言葉には、どのような意味が、また誰に言っているのでしょう。
勿論、父・母が一生懸命働いてくれるからですし、農家の方々のおかげであり、自然の恵みに対する感謝の気持ちといえるでしょう。
神道では、遠い遠い御祖先は神様より生まれ、神様より命を戴いたと考えています。無数の御祖先そして父・母がその命を私達に伝え、御祖先それぞれが精一杯生き抜いてこられ、その命の積み重ねがあるからこそ、今日の自分が生かされていると考えています。
我々をとりまく自然(太陽・山・海・川・その他の自然の神々)そして御祖先への感謝の気持ちが素直に食事の時の言葉として受継がれています。

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